薄い木の扉一枚向こうで、ゴソゴソと音がする。


「お兄さーん、いるー？」
「い、いるよー」

やましい事は何もない。
念のために見張りをしているだけだ。

「ん、しょっ」

妙に敏感になった聴覚が、パチンとホックを外す音を拾う。
佐奈ちゃんの歳不相応に大きな胸が外気に晒されているのだと、今それはこの扉の向こうで露わになっているのだと理解してしまう。

（気の迷い、気の迷いだ……！
　だ、だいたい佐奈ちゃんは子供じゃないか。
　僕は大人ではないかもしれないけどそれなりの年齢な訳で、そんな子供の裸なんて考えたり興奮したりするはずがないというか……！）

「お兄さーん」
「はいっ！！！」

つい大きな声を出してしまった。

……というか、どうしたのだろう。
声かけはこれで四度目だ。
タオルでも忘れたのだろうか？　この屋敷のどこにあっただろうか……

「その、ありがとな。守ってくれてさ。
　あの時だけじゃなくて、ずっと守ろうとしてくれててさ」
「……」

細い声だった。

「オレ、さ。怖かったし、不安だった……  ううん、不安なんだ。
　お姉さんが、あんなことになった時ーーもうダメだって、思ったんだ。
　お姉さんはいつもカッコ良くて、優しくて、強くて凛としてて……
　オレ、あの人みたいになりたいって、あの人みたいになればきっと自由になれるんだって、目標に、してさ……」

お姉さん、というのはヨミさんのことだろう。
ボクらが来るよりも前に来て調査をしていたというヨミさんは、きっと佐奈ちゃんを放ってはおかなかっただろう。
守ろうとして、不器用ながらも優しくて、尊敬できる大人の女性でーー

「オレ、オレーー　お姉さんが、あんな、ことになってーー
　オレなんて、もうどうしようもないんだって……
　逃げたって無駄で、全部終わりだって思ってた……
　正直、今でもさ、これって単なる夢なんじゃ無いかなって、オレ、本当はもうとっくに……」

「佐奈ちゃん！！」

遮った。
扉越しでも届くように、絶対に聞こえるように。

「大丈夫、僕らが守るし、助ける！
　アラカはすごく強いし、ボクだってこれでも助けたことがーー」

アラカを助けたこと、が、ある。
確かに、どこかで。

「……ぷっはは、声でけえよ、お兄さん。
　……ん、ありがとな！　頼りにしてる！」

少なくとも今は良い、佐奈ちゃんを守ることに集中しよう。
自分の記憶はきっと、すぐに戻るものだと確信できる。

それに佐奈ちゃんは、失ってしまえばもう、戻らない存在のような気がしたからーー

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「アラカさーん、いるー？」

「いるわよー」

温泉を囲む柵の向こうに声をかけ、戻ってくる声にーー守られているという事実に安心する。

ヨミお姉さんがああなってから、オレはずっと気を張っていた、いや、恐れていた。
揺れる木々の枝一つ一つに恐怖して、虫の鳴き声に震え上がっていた。
人並みに振る舞っていたのは意地や見栄以上に、怖がっている姿を見せればむしろそのまま恐ろしい何かが出てきてしまうのでは無いかと、そういう恐怖のためだった。

でも、今は少しぐらいぐらいは安心しても良いのかもしれない。
湯船から伝わる暖かさと大人が自分を守ってくれているという安心感に、ほんの少し身体の力を抜いていく。

「ふいー……　良い湯……
　身体軽い……」

屋根はなく、開かれた夕焼け空を見上げながらの入浴は正に夢見心地だ。
特に肩が軽い。
乳房が湯船に浮くと、それが普段いかに重くてどれだけ動くのに邪魔で仕方がないかを実感する。

この大きな乳房はまるで囚人につけられた枷のようだと、いつも思っていた。
この村という牢獄に繋がれて身動きできない自分に付けられた重石のようだと感じていた。

（でも、この村はもう無いんだよな）

そうしたら、自分はどうしよう。
学校には通えるはずだ、それで、勉強をして、もしかしたら部活なんかもできるのかもしれない。そして、仕事をすることだって、いつか先生が言っていたような、将来の夢とかそういうことも。

（ははっ）

ぽわぽわと、意識を浮遊させながら身体を湯に浮かばせる。
自分でも気がつかないうちに相当疲れていたのだろう、うっかりするとこのまま寝てしまいそうだ。

（ああ、目ぇ開かないと……
　ん……　あれ？　そういや、あの時……
　将来の夢って、なんて書いたっけな……？）

思考がまとまらない、いよいよ本格的に眠ってしまいそうだ。
それはいけない、起きてお風呂からでて、せんせいにきかれたしょうらいのゆめをこたえなきゃ、でもーー

ぴたりと、顔にタオルが落ちた。
お湯で濡れた暖かいタオルだ、そうに違いない。
だって、他に落ちるようなものなんて。


屋根すらないこの湯船の上で、落ちるものなんてあるはずないと。
気がついた時には口が塞がっていた。

叫べなくなってから、頭を湯船に引き摺り込まれた。
目も口も塞がれたまま頭が沈む、手足をデタラメに振り回しても何も触れない。
ただお湯だけがある、自分の周りには温く澱んだお湯しかなくて、確かにあったはずの床も岩肌も何も感じられない。

（怖いこわいコワイこわい！！！！
　助けて！！！　お兄さん！！　アラカさん！！）

助けを求めても声すら出せない、音も何も聞こえない。
なにもかもと切り離されたされる恐怖が冷たくて、頭だけが凍えていく。

（やだ、やだぁ……）

意識が閉じていく、眠りではなく恐怖からの失神。
指先の血が凍りついていくような絶望の中で、最後に一つ思い出した。

（そうだ、オレ、将来の夢ーー白紙で出したんだ）

